

天狗岳を見上げる池のほとりで子どもたちが遊んでいる。山小屋で偶然出会った同士だというのにすっかり打ち解けて、子どもというのはすごいなあと思う。4月に小学校に上がる息子は引っ込み思案で、何をするにも慎重派だ。そんな彼を山に連れてくるのは逡巡したが、やっぱり来てよかった。
独身時代に熱中した山から足が遠のいて、もう7年になる。息子がおなかにいることがわかったとき、「もう山は登れないのか」とうっすら絶望したことは夫には伝えていない。それでも隠しきれないものを察知したのだろう、息子の2歳の誕生日に、子どもを背負って山に登れるベビーキャリアをプレゼントしてくれた。登山に興味のない夫だが、何度か息子を背負って小さな山へ出かけた。が、案の定ぐずったり、オムツの世話が大変だったりで、べビーキャリアは今やどこにあるのかすらわからない。
それから私は山について考えるのをやめた。山仲間たちのSNSを見ることを避け、山の道具も捨てた。ママ友とフラワーアレンジメントの教室に通い、適当に花を束ねたり、バスケットに挿したりした。全然おもしろくなかったけれど、毎回作品をSNSにアップした。
息子が6歳、私が39歳になった誕生日(私と息子は誕生日が3日違いなのだ)、夫が大きな袋を抱えて帰ってきた。ひとつは息子の登山靴。足首までカバーできる本格仕様だ。もうひとつは大人用のリュックがふたつ。20ℓほどのサイズだが、雨蓋付きでポケットも豊富。大型リュックと遜色ない機能の高さだ。
「前は勇み足だったけど、今なら3人で登れるかなって」。決して気の利くタイプではないが、昔からこういうことをたまにする人だ。そして私はそういう彼を好きになったのだ。
夫とほぼおそろいのリュックで山に登るのは気恥ずかしかった。それに子どものペースで登る日帰りの山って退屈そう。歩き始めはそんなことを考えていたが、7年ぶりに馴染みの山小屋に着くと、「待ってたよ」と主人の懐かしい顔がのぞいて、不覚にも涙が出てしまった。
小屋の主人と薪ストーブを囲む。自分の青春が詰まった場所に夫が座っているのは妙な感じだ。「自分は山より海にばかり行ってるから、全部が新鮮ですよ。でも、これからは山もいいかなと思って。やっと家族に一体感が出てきたぞって、今日登りながら思ったんです」。
そうだ。子どもができてから好きなサーフィンを我慢していたのは夫も一緒だ。息子に手がかからなくなったら私は山へ、夫は海へ。また元どおりの形に戻ればいい。そう思っていたけれど、夫は山へ来てくれた。青春を捧げた趣味よりも家族の「一体感」を選んだ彼は、いつの間にか、ちゃんと父になっていたんだ。
私は何も諦められなくてジタバタしてきた。
「諦めることと変わることは、たぶん違うと思うんだよね」。そうだ、変わったことで見えてくるものだってたぶんある。夫婦そろいのリュックがいつか、家族3人そろいになる日がくるかもしれない。そうなったらだいぶ恥ずかしいな。そう思いつつ、息子のは何色にしようかとぼんやり考えている自分も確かにいるのだった。